モダンジャズとは?特徴や歴史などのあれこれ!②
- BCI Gospel
- 2024年10月30日
- 読了時間: 13分
更新日:2024年11月13日
『ジャズってスウィングだけじゃないの?!』
『モダンジャズとモードジャズって何🤔?』
『ジャズをもっと知りたい!と思う方!!』
ここでは、モダンジャズの種類をほんの少し詳しく書いています。
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モダンジャズには、クール、バップ(ビバップ)だけではなく、モード、フュージョンなどたくさんあります。
ここで、少しクールジャズの説明を。
クールとはもちろん、かっこいいという意味ですが、ブラックイングリッシュとしての「Cool」は、都市に暮らす黒人たちのきつい実生活が背景になっています。
反語としての「Hot」は、怒りや貧困や暴力や差別などを暗示していて、「クール」は常に理性的で平静を保つことのできる人の姿を形容しています。
今日の食事がなくても、悲嘆にくれることがあっても「私はクール」なのだ。
このような意識が、ジャズのような洗練された都市文化と結びつくことで、言葉は美的なバリエーションを持ち、その意味により積極的なニュアンスが入り込んでいくようになりました。
だからこそリラックスした軽いサウンドが特徴であり、ビバップが持っている緊張感や複雑性、高度な即興が欠けている傾向もあります。
アフロ・キューバン・ジャズ
ジャズとは関係なさそうなキューバ系の音楽。しかし、この音楽もモダンジャズに良い影響をもたらしていました。
モダン・ジャズ期にはキューバ系ダンス音楽も黄金期であり、互いが競い合い共に技量を磨いていました。
アフロ・キューバンズは、ジャズのビッグバンドの編成でキューバ音楽を演奏しようという楽団でした。ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)をはじめ、フリップ・フィリップス(Flip Phillips)、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)らジャズメンを起用して録音され、当時のジャズ界に大きな影響を与えました。
ガレスピーは当時を振り返り、「キューバ人たちがアメリカに8分の3拍子、8分の6拍子、4分の3拍子、4分の2拍子を持ち込んだ。これらはぼくらにとって、ものすごく難しい。それまで4分の4拍子しか演奏したことがなかったからね。ワルツは4分の3拍子だけど、4分の2拍子なんてあまりやってなかった。キューバ音楽が難しいのは、リズムをキープしてくれるバス・ドラムがないせいもある。キューバ人たちは足でリズムを取ったりしなかった。ぼくらはすぐリズムを見失ってしまうんだ。」 一般的に黒人はリズム感が良い、と言われています。
しかし、アメリカ生まれの黒人であり当時の音楽家の中でもトップ中のトップで、ビバップ革命の先頭に立っていたガレスピーがキューバ音楽のリズムが取れないとはいったいどういうことなのでしょうか。
彼でもそうだったのなら、他の音楽家はなおさらリズムがつかみにくかったのでしょう。
キューバ音楽との関係
いろんな説がありますが、アメリカ国内で奴隷に対して施工された太鼓禁止令が大きく影響しているのではないかと言われています。
歴史を紐解いてみると、18世紀の後半から19世紀の前半にかけて、アメリカ南部の州で太鼓禁止令が発令されたことが記録に残っています。要は、奴隷たちが太鼓でコミュニケーションを取って反乱を起こしては困る、ということで太鼓を取り上げたというものだそうです。
ですが、キューバ、プエルトリコなど、旧スペイン領の地域では太鼓禁止令が出されたという例はあまり聞きません。キューバは、奴隷制廃止が1880年と南北アメリカの中では最も遅かったこともあり、ごく近年までアフリカ文化がそのまま輸入されていました。
そこで、さまざまなリズムが自然に入り込み、それがキューバ音楽に内在していったと考えられています。それに対して、アメリカでは、リズムに関してはアフリカの伝統がいったん断ち切られ、彼らの中で改めて再構築されていったのでしょう。
30~40年代にかけてニューヨークでは、ジャズと並んでラテン・ミュージックがブームになっていました。演奏にかけてはビバップ以上で、そのうえ超絶技巧派がたくさんいました。
ガレスピーは、人気の高かったキューバのコンガ奏者マチート率いるラテン・バンドに飛び入りました。しかし、パーカッション奏者が何人も参加していたグループだっただけに、強烈なビートに打ち負かされました。
ノリはよくてもラテン音楽で鍛えたリズムには太刀打ちできない、音楽に自分のプレイが埋没してしまい、主役になれないと気付いたガレスピー。そこで彼は、ラテンのリズムを用いた曲を書くようになりました。
ジャズ界を一変させてしまったモード・ジャズ。
ビバップを経て、新たに、和声的にも即興演奏的にもやり尽くされた感ががあったとき、ジャズ・ミュージシャンが活路を見出したのが、モード奏法(教会旋法gregorian mode)でした。ビバップ期において、細かいコード進行やリリックからの脱却をはかったのは、このスタイルを数々のミュージシャンがチャレンジしていったからです。
しかし、より自由なフレージングが可能になった反面、細かなコード進行や変化がない分、いわゆるビバップの典型的なフレーズだけでは行き詰まってしまい、新たに別種のフレージングを身につけなければなりませんでした。
無調性のフリー・フォームを試したり、リズムすらその場その場で感覚の赴くまま、といった実験を繰り返すようになっていきました。
だが、制約のないところには開放もなく、60年代のフリー・ジャズの多くは音楽家の断末魔の苦しみの声が音楽になっているのかもしれません。
ジョン・コルトーレン(John William Coltrane)の『Ascension』という楽曲があります。
集められた十数人の音楽家がリズムもメロディーもハーモニーもないまま、感覚の赴くまま好き勝手に音を発して、どうなるかという壮大な実験が行われた曲です。そこには混沌と混乱以外の何物もなく、何かを聴きとろうと苦行に耐える観客しかいないような楽曲です。
ジャズ・ファンクの登場
キャノンボール・アダレイ(Cannonball Adderley)を筆頭に、ハービー・ハンコック(Herbie Hancock)もビリー・コブハム(Billy Cobham)もマイケル・ヘンダーソン(Michael Henderson)もジェイムズ・エムトゥーメイ(James Mtume)もジャズの要素をダンス音楽に融合したジャズ・ファンク(Funky Jazz)を創っていった偉大な音楽家たちです。黒人大衆の美意識にかなう高度なダンス音楽創りの精力を傾けてきいきました。
60年代にジャズを始めた音楽家はもっとファンクに柔軟に対応できていたようです。
キング・カーティス(King Curtis)の弟子たちが「Stuff」を作り、クール&ザ・ギャング( Kool & the Gang )もジャズからファンクへと音楽性を変化させていきました。
ラムゼイ・ルイス(Ramsey Emmanuel Lewis, Jr)やフィル・アップチャーチ(Phil Upchurch)らは、ファンクの時代に合わせて柔軟な対応をしていきました。
マイルス・デイヴィス(Milles Davis)やジョン・コルトレーン(John William Coltrane)の門下生からもハービー・ハンコック (Herbie Hancock) を筆頭に、ノーマン・コナーズ(Norman Connors)、ジェイムズ・エムトゥーメイ (James Mtume) 、レオン・チャンクラー(Leon Ndugu Chancler)、レニー・ホワイト(Lenny White)たちがジャズを起点としながらも黒人大衆の美意識にかなう音楽の製作に乗り出しました。
フュージョンのブームが起こる
ギタリストのジョージ・ベンソン(George Benson)を先頭に始まりました。
彼は、ギターに音作りに、歌にと、黒人大衆美学の精華を見せました。ですが、ロックやポップスやソウルとジャズの融合を謳ったフュージョン音楽の大多数はイージー・リスニング音楽にすぎなかったようです。
ジョージ・ベンソン(George Benson)
フュージョンの歴史において、彼はとてつもなく大きな存在です。
『Breezin’』というアルバムがなかったら、フュージョンという音楽の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
養父の影響により11歳からギターを始め、高校卒業後は地元のジャズ・グループやR&Bバンドで活動していました。62年にオルガン奏者のジャック・マクダフ(Jack McDuff)のグループに参加して注目を集めるようになり、64年初のリーダー・アルバム『The New Guitar』をリリース。期待の若手ギタリストとして大きな注目を集めました。65年彼は自分のグループを作り、『Its’ Uptown』『The George Benson Cookbook』をリリース。この頃には、卓越したギターとR&Bテイストのヴォーカルがフューチャーされており、すでに彼のスタイルが確立していました。
彼の演奏の特徴は、速弾きをしても全くといっていいほど乱れないピッキング、次から次へと湧き出てくるフレーズ、指板を縦横無尽に駆けめぐる左手、ドライブ感あふれるビート。彼独特のオクターブの間にもう1音付け加えるという奏法です。
ジョージ・ベンソンの基本的なギター・スタイルは30年以上変わっていません。周りのサウンドがどう変わろうと、彼のアプローチは一貫しています。このひとつのスタイルを極限にまで突き詰めた彼のプレイは、その華やかなイメージとは裏腹に、かなりストイックなものを感じさせます。「家にいるときも、ずっとギターを触っているよ」と。彼のスタイルは間違いなく、血の滲むような練習の結果として確立されていったものです。
代表作 「Breezin’」 「Its’ Uptown」 「That’s Right」
90年代にはジャンルを超えたすべての黒人大衆音楽の歴史を遺産として受け継ぎ総合しようと志向するロイ・ハーグローヴ(Roy Hargrove)という音楽家が現れました。
2003年に出た『Hard Groove/Rh Factor』はジャズとR&Bとヒップホップ界で活躍する旬の音楽家たちを一堂に集めたアルバムであり、それはストリートで誕生したジャズが今一度ストリートから現代大衆音楽として再生するという構図を描くものでした。彼の志はロバート・グラスパー(Robert Glasper)らに受け継がれ2010年代の今日も。
「ジャズ・ザ・ニュー・チャプター(Jazz The New Chapter)」として日本でも注目され、今やジャズにおけるもっとも熱い潮流となりつつあります。
ストリートから再生するジャズという意味ではニューオーリンズのブラスバンドも忘れてはなりません。
90年代のダーティ・ダズン・ブラスバンドの活躍に刺激され、かの地では現代のストリート音楽としてブラスバンドを再生させる動きが若者たちを中心に盛んとなっていました。リバース・ブラス・バンド、ボノラマ(Bonerama)、クールボーン(Coolbone)、ビッグ・サム(Big Sam)らの目指すものは現代の若者の生活感情の発露としてのストリート音楽です。
フリー・ジャズを除くモダン・ジャズの頂点を極めた作品、マイルス・デイヴィスのライブアルバム『"Four" & More』と『My Funny Valentain』マイルス・デイヴィスを筆頭に、ハービー・ハンコック、ロン・カーター(RON CARTER)、トニー・ウィリアムス(Tony Williams)、ジョージ・コールマン(George Coleman)らメンバーが繰り広げる演奏は、ブルースからこれまでのジャズのエッセンス(ラテンも)すべて含み、ハーモニー、リズム、メロディーの音楽三大要素がすべて頂点に達した、まさにマジックが起きたかのような演奏です。
ジャズ・ギターのスタイルを完成させた男、
チャーリー・クリスチャン(Charlie Christian)
スウィング・ジャズの時代も末になるまで、ジャズの世界でギターは伴奏楽器にすぎませんでした。アンサンブルやソロのバックでリズムを刻むだけであり、テーマ・メロディをたまに弾くことはあっても、ギターでアドリブをすることは誰も思いつかなかったそうです。
チャーリー・クリスチャンは、その固定観念を打ち破った人です。
彼はベニー・グッドマン楽団で活躍していました。楽団での仕事を終えると、仲間のミュージシャンが溜まり場にしているクラブでやりたいようにジャズを演奏していました。
そうした中で、ギターでソロを弾いてみようという発想が湧いてきたそうです。最初は短音で短いフレーズを弾いていただけだが、徐々に長尺になり、フレージングも複雑になっていきました。
彼とセッションしていた仲間が超絶技巧で知られるデイジー・ガレスピーだったことも重要でした。ガレスピーに触発され、彼もソロに技巧を凝らすようになり、管楽器のスピードに対抗できるテクニックを身につけました。このような成果を存分に披露したのが、最初のギター・ソロを記録したといわれる『The Genius of the Electric Guitar』です。
クリスチャンがジャズ・ギターの革新者になれた裏には、テクノロジーの発展もありました。ギター・アンプの登場です。それまでは、マイクのないアコースティックギターが一般的で、ソロを弾いたとしても、音量が小さすぎて人に聴いてもらえる状態ではありませんでした。クリスチャンもマイクなしのアコースティックギターを弾いていました。その音を場内のマイクで拾って増幅させていましたが、それも不都合なので、ギターにマイクをつけて、その音を専用のアンプで増幅させるアイディアを考えだしました。
最初は、電気機器に詳しい仲間に頼んでギターにマイクを内蔵し、手作りのアンプに繋いで演奏していました。その後、ギターのメーカーが彼のために専用のアンプを開発しました。それをほかのギタリストも使い始め、ギターでソロを弾くスタイルが定着していきました。
クリスチャンは25歳という若さで結核をこじらせ亡くなりました。
自分が扉を開いたギターでソロを弾くスタイルが広まる前の早すぎた死でした。「クリスチャン派のギタリスト」という言葉があるほど、絶大な影響力があり、以後に登場したジャズ・ギタリストの大半がなんらかの形でクリスチャンのスタイルを受け継いでいることは間違いありません。
ジャズのあれこれで今後紹介』と書きつつも紹介出来ていなかった人物。
「スウィングの王様」と呼ばれた、ベニー・グッドマン(Benny Goodman)
クラリネット奏者。スウィング・ジャズの黄金期時代、グッドマンのオーケストラによる35年の全米ツアーは大成功を収めました。
翌年、彼はテディ・ウィルソン(Teddy Wilson)、ジーン・クルーパ(Gene Krupa)とトリオを結成し、ビッグバンドと2本立ての活動を開始しました。その後ライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)が加入し、それにより史上名高いグッドマン・カルテット(Benny Goodman Quartet)が結成されました。
ビッグバンド全盛期のこの時代、グッドマンはオーケストラを率いる一方、スモール・コンボによる演奏の可能性も追求していました。これには、白人(グッドマンとクルーパー)、黒人(ウィルソンとハンプトン)が混在しており、人種差別にうるさかった当時は大きな物議をかもしたそうです。しかし、グッドマンはそれを異に介しませんでした。
グッドマンのキャリアにおけるピークは38年、「カーネギー・ホール(Carnegie Hall)」で史上初のジャズ・コンサートを開いた時でした。「カーネギー・ホール」はクラシック以外の音楽をいっさい締め出していました。例外もありましたが、コンサートを開くのに相当大変だったそうです。なので、グッドマンの「カーネギー・ホール」でのコンサートも簡単にはOKが出ませんでした。
しかし、ホール側も絶大な人気に抗しきれず、加えてプロモーターの強力なプッシュもあり、グッドマン率いるオーケストラとコンボにさまざまな豪華ゲストを迎え、一世一代の大コンサートを実現させました。
これ以降、「カーネギー・ホール」では比較的容易にジャズのコンサートが開催できるようになりました。
まとめに
30~40年代にかけてニューヨークでは、ジャズと並んでラテン・ミュージックがブームになった。演奏にかけてはビバップ以上で、そのうえ超絶技巧派がたくさんいた。
30年代はアンサンブル重視でダンスのためのジャズがメインとなっていたが、それに対抗し、踊るためでなくアドリブを聴かせるジャズとして登場したのがビバップである。
その時同時に激しく「黒人性」を求め、結果的に一番近くにあった「黒人性」=「アフリカ性」の象徴としてアフロ・キューバンと結びついたのではないか。
さらに、ガレスピーが振り返って話したように、アメリカの黒人たちにはリズムに関してコンプレックスがあったのではないか。ジャズメンは、そのリズム、自分たちには理解できないその魔力に強烈に惹きつけられた。
40年代末には、ラテンとビバップの間には次第に距離が生じてきた。このころから、ニューヨーク・ラテン界はマンボ・ブームに突入し、ジャズ界はマイルス・デイヴィス(Milles Davis)によって新たな動き、クール・ジャズが生まれた。
ビバップを経て、新たに、和声的にも即興演奏的にもやり尽くされた感ががあったとき、ジャズ・ミュージシャンが活路を見出したのが、モード奏法(教会旋法gregorian mode) 。
60年代にジャズを始めた音楽家は 、もっとファンクに柔軟に対応でき、ジャズからファンクへと音楽性を変化させていった。
*参考図書*
・『モダン・ジャズ革命』、株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント、2015年。
・『ビバップ読本 証言で綴るジャズ史』、株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント、2018年。
・『フュージョン・ミュージシャン150人の仕事』、株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント、2011年。